ドイツ映画『女は二度決断する』を観て

日本で2018年4月より上映されているドイツ映画『女は二度決断する』を観た。と言ってもドイツではすでに今月よりDVDが流通しているので著者はDVDで観たのだが。

Source: http://www.filmposter-archiv.de/filmplakat.php?id=27484

ストーリーは実際に2000年から2007年にかけてドイツ国内で起こった連続殺人事件を題材としている。犠牲者の大半は外国人もしくは移民系ドイツ人が標的となったのだが、それらの犯行を犯したのがNSU(Nationalsozialistischer Untergrund)と呼ばれるネオナチ地下組織の人間であったことが発覚したのは最初の事件が起こってから10年以上も経った2011年11月のことである。2013年5月より「NSU-Prozess」と呼ばれる訴訟がミュンヘン上級地方裁判所で進行している。

【2018年9月9日追記:NSU-Prozessは2018年7月10日に終結した。主要容疑者のベアーテ・チェーペ(Beate Zschäpe)に無期懲役が言い渡され、その他の容疑者4名にもそれぞれ懲役2.5〜10年の有罪判決が下された。】

犠牲者は合計で9人。全員男性。うちトルコ人が6人、トルコ系ドイツ人が2人、ギリシャ人が1人。またトルコ系8人のうち5人は人種的にはクルド人であったことが明らかになっている。

監督のファティ・アキン自身もドイツ生まれのトルコ系ドイツ人。二世でありつつもこれまで移民扱い・人種差別を受けてきたであろうことを考えると、作品の当事者として受け止めてしまうことは避けられない。

なお、本作品は特定の連続殺人事件をそのまま実話として描いたのではなく、連続殺人事件の様々な要素を混ぜ合わせた、いわゆる実話ベースのフィクションである。

原題は『Aus dem Nichts』で、訳せば「無の底から」、「無の果てより」といった意味。


あらすじ

主人公はクルド人の男性ヌーリ・セケルチと結婚したドイツ人女性カティア・セケルチ(役:ダイアン・クルーガー)。ドイツ北部のハンブルクで息子ロッコと共に三人で幸せに暮らしていた。

そんなある日、事件は起きる。

カティアがロッコをヌーリの事務所に預けその場を去ると、戻ってきた時には事務所の前に置かれたくぎ爆弾が爆発し二人とも即死。

自分の両親や義理の両親だけでなく捜査当局などからも十分な理解や共感を得られずカティアは精神的にどんどん追いやられていく。ショックと孤独さで薬物や自殺などを試みるがそれもうまくいかない。

後悔や復讐心が複雑に深まっていく中、カティアの目撃証言を基に容疑者が見つかり舞台は法廷に移る。被告人はネオナチ夫婦の2人。現場で目撃された女性エッダ・ミュラーと、くぎ爆弾を作ったその夫アンドレ・ミュラーである。

いくつか法廷で重要な証言が出てカティアの勝訴が濃いかと思いきや、判決は敗訴となる。

訴訟が退けられたことを喜ぶ容疑者2人の姿はカティアの心境を窮地に追いやる。

(※下記よりネタバレ注意※)


憎しみの連鎖とメンストルエーション(Menstruation)

実は爆殺事件以降、カティアは月経(メンストルエーション)が止まっていることが描かれている。これはアキン監督がこの作品に含めているメッセージを解釈する上で重要である。

家族と法の正義に裏切られたカティアはカップルの殺人を計画する。ギリシャの海岸沿いまでバカンスに向かった2人を追跡し、くぎ爆弾という同じ手法で爆殺しようと試みるのだ。

最初、カップルが寝泊まりしているキャンピングカーの下に爆弾を仕掛け、リモコンカーで遠隔操作し復讐を図る。しかし、いざ犯行に移るとなるとためらってしまい爆弾を退けることになる。

でもどうしても諦められないという気持ちで一晩考えたのち、翌日キャンピングカーに戻り、自分の体に爆弾を身に付け自爆テロでカップルを道連れにする。

邦題の「二度の決断」とはまさにここを指しているわけだが、その二度の決断の間にカティアに何があったのか?ヒントはメンストルエーションにある。

自爆テロを起こす前日の晩、カティアに月経が戻るシーンが描かれている。月経とは女性に繰り返し起こる生理的活動なわけだが、ここでは一定のパターンやリズムを象徴している。

そう、憎しみが連鎖して復讐を生み続けるテロリズムの負の連鎖と重ねているわけである。

ここからは著者の解釈だが、それまで月経の止まっていたカティアはある意味で異常状態(独:Ausnahmezustand)にあったと言える。生理機能が働いておらず、薬物や自殺を試みるのもその状態においてのことである。ヒステリー(英:hysteria)の語源に当たるギリシャ語のhystera(ὑστέρα)はそもそも女性の過度な気分変調、その中でも特に生や生理活動から生じる狂気状態を意味していた(英語のuterus(子宮)もそれに由来している)。

月経が戻ったことで我に返ったカティアは、憎しみの連鎖を断ち切るため自爆テロに踏み切るのだ。

これは相容れない2つの選択を拒否する形を取っていると考えられる:

  1. 法廷で上訴する ⇒ 法の正義は自分の憎しみを解消しない(諦め)
  2. カップルを爆殺する ⇒ 更なる復讐を招く(反復)

生理的周期活動が戻ったカティアは正気に戻る。月経の象徴する周期活動を再び体験することで、事件については逆に憎しみの連鎖を断ち切る必要性をそこで自覚する。憎しみの連鎖を自分の月経のように今後も続けさせることが耐えられなかったのである。

第3の選択肢として自爆テロを選び、結果として自分の憎しみごと無に放り去ったのだ。

そう、原題にあるようにこれは「無」をテーマにした作品なのである。テロの虚しさ、醜さを視聴者に訴えかけるそんな映画だ。原題から本作品のメッセージをどうしても次のようにくくりたくなってしまう:

無からは無しか生まれない。
Aus dem Nichts wird’s nichts.

取り残された犠牲者の家族や知人に絶望的な憎しみしか与えないテロ。それをこの映画は痛烈に批判する。しかしその最後は上記の二択のように単純な結末で締めくくるのを拒否しており、自爆テロというなんとも消化し難い、悲劇かつ虚しい結末で終わるのである。視聴者にはテロの不条理さがそこで伝わってくる。

なお、本作品を観てブラジル映画『ビハインド・ザ・サン』を思い出した。こちらもブラジルの部族間で憎しみと復讐の連鎖をテーマにした名作である。

Ben T. Yagi

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